シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 感想(ネタバレあるかも)
考察だのなんだのはインターネットにたくさん転がってるとおもうので特になんもないです
エヴァンゲリオンという作品は、91年生まれ田舎育ちの自分にとっては遠い存在だった
物心ついた頃にはもう全部終わっていた
90年代の日本語ヒップホップシーンと近いものがある
というのを93年生まれの妻ともわかちあった
序が劇場でかかっていた頃は、高専の半ばくらいで、知り合いでも見てる人がいたような
当時のことはあんまり鮮明に憶えているわけではないけれど、なんか妬ましいというか、テレビ版が放映されていた時分にみれていた人はいいわねえ、みたいなのがあった気がする
TV版とか旧劇とかみておかないと...というのも腰を重くしていたとおもう
破も同様でスルーしていた
それから少し経って、ツタヤの定額レンタルサービスのネタが尽きてきたので、エヴァとかいうやつみてみっかーと序破を通しでみたらこれがすげー面白くて、なんてことだ....こんな面白いものをスルーしていたのか....と衝撃を受けたのだった
それからQが公開された12年は大学に編入した年で、京都駅の近くのイオンで公開日に足を運んだ
当時もネタバレを恐れて、劇場に早めに着いた後イヤホンの音量を上げながら京都駅周辺をうろついて、開場してすぐ劇場に入って座席に座った
今でこそまあまあQも楽しめる(通しで全編みるのはしんどいが...)けど、当時の一体俺は今何を見せられているんだ...?という感覚は今でもありありと思い出せる、スクリーンの前であんぐりとしていた
でも巨神兵はめっちゃ面白かった
あまりにも受け入れ難くて、序と破ごと嫌いになってしまったほどだった
あれから8年も経ったんだなあ...と感慨深い気持ちでいっぱい
シンジは急に全てを察したかのように振る舞いを変えたが、自分自身もこの8年で生活や考え方、生きる上で大事なことが変わったとおもう
カヲルがQで死に際に言っていた台詞に非常に共感をおぼえるようになった
あとマリが本を集めていて、本は人類の営みの~みたいなことを言ってたのにそうそう!みたいな...
人が環境を書き換えてきた中で最も偉大な発明は言葉や文字で、その次が活版印刷だと信じているので
こうして書くことで自分自身も書き換えていくのだとおもう
25年楽しんできた人とは付き合ってる時間が全然違うので、(せいぜい半分くらいがいいとこ)すごい人はもっとすごいのかもしれんが...
というようなわけなので、作品単体としてなんらか客観的な評価をするというのは非常に困難でこうしてダラダラ書いている
とはいえ、シンは端的に言うと急いで風呂敷畳んできたな~という...
ep9もかなり駆け足で回収していったけど、それに近い大急ぎ感があった
説明的な台詞がとても多いし、ゲンドウの動機もすんなり語られ、そしてすんなり解消して去っていった
壮大な親子喧嘩に巻き込まれただけではないか...という何度めかのやつ
パンフが売り切れてて買えずで悲しかったが、どうせシンゴジの時みたくどデカい冊子が出ることを期待して待つ 終わってみると、意図的なのか偶然なのか分からないけど、序破(過去パート)とQシン(現在パート)で半々みたいなバランスだったのかな
シンの終盤は漫画版とかなり近くて、新しく世界を作り直す
帰ってきてから漫画版をちょろっと読み返したが、漫画だとまだ創作上の世界だったり、アスカたちとまだつながりがありそうな余韻があるのに比べるとシンは過去のキャラクターたちと決別して、比較的新しいキャラクターのマリと駆け上がっていくというのはなかなかグッとくるものはあった
虚構と現実はシンゴジでのテーマでもあったわけで
そして、作られた世界の演出として実写が出てくるのはアニメの特権だなと
クリストファー・ノーランっぽい感じ
マリがアスカの髪を切るシーンは漫画版でユイがマリにやってたやつじゃん!とか
終盤のNノーチラス号完全にAAAヴンダーや~んとおもっていたが
シンで潜行するAAAヴンダーをみてやっぱノーチラス号じゃん!とか...
アスカが「好きだったよ、昔」と告白して去っていくのはなんか子供時代との決別というか、そういうのあるよね~...とか...
メタ的な演出で見せてきたのは監督のプライベートフィルムみたいな雰囲気を感じた
私たちがこうして暮らす世界は、もしかしたら遠い昔にこんなことがあったのかもしれないし、なんにもなかったのかもしれないけれど、人類がその手で世界を書き換えてきたのはたぶんそうで、その一端には確実にたくさんの創作があって、そしてその創作の影には誰かがいる
ところで、アスカがもはや裸で普通に出てきたり「これだから若い男は...」みたいなのがあったりするのにどこか居心地が悪い自分がいた
冷静に考えてみると、男でマトモに描かれるのはカヲルを除けば(そもそも人間じゃなさそうだし...)鈴原と相田くらいなもんで、ゲンドウはこんな父親はいやだシリーズ堂々1位だし、その腰巾着みたいな冬月もユイやマリと云々みたいな感じでなんだかなという
一方で、女性はというとエヴァパイロット陣もシンジ以外はみな女性だし、ミサトさんはもちろん、リツコ、鈴原妹、ヴンダーのギャル、委員長(子の世話だけでも大変そうなのに、アヤナミの世話まで引き受けて...)、第3村のおばあさん方、そして全ての爆心地ユイとやっぱ90年代で止まってんのかな~みたいな....
カジがいなくなったのもそれに拍車をかけてるような
というか、式波シリーズと綾波シリーズは第3の少年に好感を抱くように設計されている~みたいな設定がアスカから説明的に語られるけど、ネルフなのかゼーレなのかはそんな回りくどいことをしないと目的を達せられなかったんですか?みたいな...
あと先にマリとのラストについて触れたけど、散々セックスシンボルとして扱ってきて、じゃ終わるんでさいなら~というのはなんつーか性的搾取感がしてしまうというかなんというか...
式波や綾波がクローンだというのは、実はそういう性的消費のメタファーだったりするんだろうか?
であればもうちょいなんかほしい気もする